2014年10月20日の「屋久島方丈記・偏見ご免のたわごと編:No.249」の記事です。

先週見たブログにブスの本音がムカつくというはなしがあった。ブスに面と向かってブスと言えない。これは世の中の気遣いみたいなものである。そしてその気遣いに守られているのに気づかないブスが、気遣って自分が言ったことに正論に聞こえるような本音をズバズバ返してくる。その庇護されている己をわきまえない厚かましさにムカつくというものである。気遣いをやめれば自分はどんなに楽になれるかと思うが、普通の神経の自分はやめられない。そして厚かましいブスにはブスだからこんなものと悟るような境遇が待っていると思いたい。私が意訳するとこういう内容のようである。

もともとは暗黙的に気遣いされるべきと思われている人間のなかに自分が気遣いされていると気づかずただただ自分の権利ばかり主張したり自分を棚上げして気遣いの言葉に反論してきたり正論らしきことを言い募ったりしてくる人間を皮肉ろうとして、ちょっと見、気を引くようにそういう人間の例としてブスということにしたのではと思われる。私も面白半分ブスという語に引かれて読んでしまったのだが、言わんとしているところには引かれるところがあった。自分の置かれた立場が庇護されているということに気づかず、やりたいようにしたり言いたいことを言ったりあるいはひとを支配したりする人間に私が感じるマイナス感情に通じるところがあったからである。

似たようなことは韓国や中国と日本のもの言いやジャーナリズムの暴走などに感じることがあるし社会的弱者や被保護者と目されるひとたちとあるいは閉じた世界にいるひとやその周辺とのコミュニケーションで感じたことも何回かある。その例二つである。そのひとつは教師関連の例である。ある教師の奥さんのことである。常々お世話になる教師の奥さんだから自分の子どもくらいであってもそれなりの敬意を持って接していた。インターネットを使い始めたころのこと、用事でその奥さんに初めて妻がメールしたらその返信によく書けてますよとの評が付いて返って来た。それを聞いて私は用事だけで済まさず、コミュニケーションをとった妻の能力をも評価する教師の奥さんに不快を感じたことがある。教師には生徒などを見下す意識を持っているものがいて、教師の奥さんと持ち上げられて扱われているその奥さんにまでそういう意識が伝染しているのかなと思ったことである。

またあるグループ活動でメンバーに校長がいたが、妻がXXさんと名を呼んだら怪訝な顔をしたそうである。妻は自分の先生でもないし子どもの先生でもない。子どもももう大きくなって学校にも行っていない移住してきた地でのことである。それなのにプライベートな場面でXX校長先生と呼ばない妻に怪訝な顔をしたようである。これも本音で文句も言い難い仲間内や生徒・父兄から先生と呼ばれ、そう呼ばれるのが当然と思っているからだと思ったものである。

もう一例である。ブスのブログの出た同じ日に見たTVで琉球独立論というのが話題になっていた。独立があるかないかという面白論議である。私も独立は無理筋だと思っているが、その議論の中でもし独立し自衛隊と米軍が撤退したらすぐ中国の支配下になってしまうだろうという話があった。いまでも国からの多額の交付金などで沖縄が運営されている。沖縄県民が独立を望み琉球として独立したとして、中立を目指すとしてもそれを保証する軍事力をどう確保するのか。琉球国民皆兵制にするのか。また琉球としての経済自立の見通しがどうなっているのか。それが担保されなければ中国に国替えになるだけかも知れないというはなしである。

現状の沖縄は経済的・軍事的に日本という国家の枠組みの中で気遣いと庇護を受けているわけである。それで成立している状況が独立しても当たり前に続くという前提の上に独立論が浮上している印象である。私には琉球独立後どのような発展した姿になるのか具体的に想像できない。いまのところ沖縄の問題は、国内で軍事的重要性対応とそのための経済補償・保証を基礎に解決していくしかない。それが政府の考えでもあるがなかなかすんなり行かない。本土の犠牲になっているかわいそうな存在だからとなだめすかされるのが当たり前みたいになっている沖縄に対し本音が言い難いからだが、沖縄は面と向かって本音を言われない存在からの脱却が必要であると思われる。



(関連記事)
屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編:
   No.64  軟弱者の言い分のこと  [2001(H13).08.13]


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