2019年12月20日の「屋久島方丈記・偏見ご免のたわごと編:No.556」の記事です。
                   
12月初週のある日あるテレビ番組であるSNSが「いいね」を止めるという話題を放送していた。何かをやりながら音声だけを聞きかじっただけなので、いまテスト中のものを本格化するのかあるいはただテスト中であるということを話題にしたものか定かでない。ネットで見た限りでは11月にテスト開始したという記事しか出ていないようだから多分遅ればせながらそのことを話題にしたのかも知れない。

私は「いいね」についてはあまり好ましい機能だと思っていない。他人の評価で生きることに支配される人間を作り出す機能みたいな印象を持っているし、その機能に操られてひとの評価ばかり気にしているような人間にあまり魅力を感じない。他人の評価で生きる商売の人間は別にして、そうでない人間は自分の納得する在り方・生き方に努めた方がよいのではないかと私は思っている。「いいね」と言われることを目的にするのではなく、嫌われても他人に迷惑をかけず自分の在り方・生き方を追求してこそ幸せだと感じる人生になる。その結果「いいね」と評価されるならば御の字だと思われる。

放送を聞いていたとき、妻が「いいね」ねらいと似ているのではと勘繰っていることがあると言った。先日趣味関係で調べたいことがあってネットを見ていたらあるサイトのひとが本も出していてタイトルが幸せになる生き方みたいなものだったのでうさん臭く思ったそうである。そのあと妻がネットで調べた結果について友人に電話した際、そこのひとが幸せになる生き方というような本を出しているというはなしをしたらその友人が言うには、そんなことひとに決めてほしくない、余計なお世話よね、幸せなんてひとそれぞれでひとに言われたくないよね、ということだったそうである。

私は幸せになるという意味は、自分の思うように生きることに尽きるという気がしているので、誰が書いても結論は同じような気がしている。何となく何年か前に読んだ「嫌われる勇気」という本ではひとに嫌われても自分の生き方を貫くことが幸せに生きることでそうするための自分の意識の持ち方を説いているように思ったのだが、その本も同じようなことを書いているのではないかという気がしている。私はその本を見ていないので内容については分からないので、もしわたしの想像と違ってひとの評価を当てにする「いいね」志向のものでその具体的な内容が自分のやり方の正当化主張であったりひとに受ける行為・行動の仕方を指南しているのであれば要らぬお世話ということかも知れない。



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